臨床文学論
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| 書籍名 : 臨床文学論 川端康成から吉本ばななまで |
| (リンショウブンガクロン) |
| 著者名 : 近藤祐子(コンドウヒロコ) 著 |
| 発行日 : 2003-02-05 |
| 税込価格 : ¥2310 |
| 本体価格 : ¥2200 |
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★「読書人」4/4、中村三春
「病いとしての〈わたし〉〈わたし〉という病い「臨床と批評の出会う地平」と、帯には銘打たれている。川端、ばなな、春樹、山本昌代、尾崎翠らの小説に登場する〈わたし〉の様相を追究するために、木村敏、中井久夫、河合隼雄、市川浩らの、精神病理学や心理療法論などを援用し、臨床的であり、かつ文芸批評でもあろうとする緊張感溢れる論述が展開される。とはいえ、小説家の精神分析、もしくは病跡学などという陳腐な方向性を著者はとらない。「病いが描き出した人間像をモデルに思考を深めるということは、作者に病名を与え病理との因果関係において作品を解釈することでも、虚構の人物達に病名というレッテルを貼\り、病理の枠組みによって全てを説明しようとすることでもない。[…]病いとは、既成の目我の概念では説明できないテクストの〈わたし〉を、より柔軟に捉えてゆくための補助線であるべきではないか」とする言葉が、著者の立場をよく伝えている。あくまでも、自我分析、〈わたし〉論としてのみ、本書における「臨床」の標的は定められてゆく。と同時に、ばなな、山本、翠と、本書の申核を占める作家論は女性の書き手に捧げられ、川端、春樹に対しては批判的であることも見逃せない。…(本書は)一般論を超えて、「家族の解体」「共同性の喪失」以後の現代の若者が抱える心の病に対応しようとする、真摯なスタンスを示して心に迫る。
★朝日新聞 3/9、池上俊一評
「「臨床」が流行っている。古株の臨床心理学の傍らに、近年、臨床教育学と臨床哲学が芽生え、そして今、臨床文学の種が播かれた。病める現代日本において<わたし>が溶解してゆく危機の諸相を、ぎりぎりの言葉で表現する現代作家たち。彼らの特異な訴えに注意深く耳を傾け、「時代の病」へと開いてわたしたちに仲介する姿は、託宣をする巫女のようだ。身体で世界を分節する「身分け」と言葉で世界に文目をつける「言分け」、双方を視野に収めた鋭利で繊細な批評の言柴で、苦悩の現場と関係を結び、そこに深い意味を見出してゆく作法が、臨床の臨床たるゆえんだろう。
川端康成、尾崎翠、村上春樹、山本昌代、吉本ばなな、彼らは皆、身体と感覚をめぐる不思議で異様な語りが急所を縫いとる織り糸となる作品を書いている。対象の生命力を奪いとり物化する視線、<わたし>の匂いの世界への漏洩、カウンセリングの仮面の下での心病む人ヘの裏切り、なにげない家族の日常に横たわる世界全体から<わたし>を引き裂く溝、ふんだんな料理の脇を流れる死に近接した時間……。こうした<わたし>の病状の意味を、作品中の巧んだ語り口の仕掛けに探るべく、著者は、特徴的な言葉の用法、語りのねじれ、ひいては語り手の意識に着眼し、考察を重ねてゆく。たとえば吉本ばななの『キッチン』では、冒頭の「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う」の一文に拘泥するとともに、「ふと」「ふいに」「突然」という言葉の多用と移行を分析する。山本昌代の家族小説においては、登場人物たちを捉えては脅かす非人称の声を解釈のひとつの鍵とする、といった具合だ。
だが症候の分析といっても、帰着点があらかじめ決まっている不毛な精神分析批評とはまるきり違う。言葉の用法に徹底的にこだわりながらも、テクストの構造分析のような内在分析に終始することもない。自らの体験を通じて理論を咀嚼し、自前の方法で作品に係わっているからこそ、読者もスリリングな読みに誘い込まれるのだろう。臨床文学、大樹に育つのも遠い将来のことではあるまい」。
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